弁護士法人窪田法律事務所 弁理士 加藤 ちあき 先生
バラの香りが開いた扉
年の瀬に芳しいニュースが飛び込んで来ました。住友ゴム工業株式会社がインドで出願した匂いの商標=「花のような芳香/タイヤに塗布されるバラの花を思い起こさせる香り」が、インド商標局によって認められ、登録査定となりました。この出願は、2023年3月23日に、第12類の「自動車用タイヤ」を指定商品として、「使用予定」に基づき出願されました。商標局の公告決定書によれば、これはインドで初めての嗅覚商標(smell mark)出願だそうです。
審査において、インド商標局の審査官は、本件商標には識別力がなく、必須要件である「graphical representation」(図示による裏付け)がないとして、インド商標法9条1項(a)および2条(zb)に基づき拒絶理由を発しました。商標局からのHearing(聴聞)通知は複数回に及び、出願人側も回答書の提出、聴聞への出席、複数回に渡る書面の提出をしたとあります。
なかでも、「graphical representation」という要件は非常に厳しく、文字どおり目に見える形で匂いを表現できなければ登録されることはありません。そこで、インドでは匂いの商標の登録は無理と考えられてきました。ところが今回の出願人は、このバラのような匂いというものを七次元のベクトル空間で表現した科学的データを提出しました(下記ご参照)。

これは、フローラル(花)、フルーティ(果物)、ウッディ(木)、ナッティ(木の実)、パンジェント(刺激臭)、スイート(甘さ)、ミント、といった「基本の7つの匂い」を軸に五段階で評価したものです。私たちが感じる匂いというのは複数の匂いの混合物の結果であり、これを、インド工科大学アラハバード校の研究者と協力し、香りを数値化することで、香りの境界を客観的に示すことに成功したとあります。
インドの法的判断基準は「平均的な知能と不完全な記憶力を持つ人物」が特定の香りを理解し、記憶できるかどうかでした。出願人によりますと、バラには平均的な人が混乱することなく容易に識別できる明確で均一な香りの特徴があるということでした。商標局はこのデータの有効性を認め、「香りは視覚的に表現できない」という従来の常識を覆し、このベクトル表現を「graphical representation」として認めたのです。
また、日本にはない興味深い制度として、インドには「amicus curiae」(アミカス・キュリエ)という制度があります。これはラテン語で直訳しますと、「friend of the court=法廷の友人」という意味です。審査官は、本事件への公正な支援とサポートの必要性を認識し、商標法における豊富な経験を持つ弁理士1人を本件のアミカス・キュリエに任命しました。アミカス・キュリエは中立な専門家としての立場から意見書を提出します。今回は、出願された商標の識別力を科学的かつ客観的に確立するための補足的な科学報告書も提出したそうです。
本件が画期的だったのは、いわゆる「使用による識別力」(セカンダリーミーニング)を認めて登録を決めたのではなく、使用の証明はまったくなされずに登録査定に至ったという点です。出願人は、1995年以降、自社の事業戦略および製品開発の重要な要素としてバラの花の香りを自社製品に取り入れている、と証言していますが、使用による識別力の主張はしていません。タイヤといえばゴムの匂いが当たり前、そこにバラの香りをつけるという発想自体が既に強烈な商標の個性(識別力)だったということなのでしょう。
さらに、筆者が一番大切なポイントだと思ったのは、この出願人が1996年にイギリスで既に匂いの商標登録を有していたという事実です。インドやマレーシアといったイギリス連邦の国々で拒絶理由が出たとき、現地代理人から、「イギリスで登録をお持ちではありませんか?」と尋ねられたことはないでしょうか?イギリス連邦の国々では、先にイギリスで登録の有効性が認められていますと、いったん拒絶理由が出た場合であっても登録になることがよくあります。本件商標「花のような芳香/タイヤに塗布されるバラの花を思い起こさせる香り」は、1994年10月31日付で(UK00002001416号)イギリスで登録が認められていました。また、審査官は他の国(EU、アメリカ、オーストラリア等)の商標制度についても研究をしており、匂いの商標登録が存在する国々がある一方で、レモンのような一般的な匂いや、マスクに香り付けするといった機能的な臭いを商標として独占すべきではないという事実があることも指摘していました。
香りは、視覚よりも記憶に残りやすいと言われます。今回の登録査定は、インドにおける新しい商標の転換点になりました。慎重な法解釈と科学的根拠に基づいたこの非伝統的な商標を受け入れることで、インドは今後すべての感覚商標の出願に対して強力な前例を示しました。その扉を開けた出願人が日本企業というのも誇らしいですね。
以上




